教えのやさしい解説

大白法 653号
 
本門の本尊(ほんもんのほんぞん)
 日蓮大聖人は『総在一念抄(そうざいいちねんしょう)』に、
 「我等も三千を具(ぐ)するが故に本有(ほんぬ)の仏体なり。仍って無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして差別無きなり」(御書 一一四n)
と仰せられ、一念三千の法理により、一切衆生の命と仏の命は、本来道理の上から円かに融(ゆう)じ合っていて、卑小(ひしょう)と思いがちな私たち一人ひとりの命も、必ず仏界に通じていると御指南されています。そして、私たちが仏の境界を体現するために必要となるのが信仰の対象、対境(たいきょう)である本門の本尊です。
 総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は『文底秘沈抄』に、
 「夫(そ)れ本尊とは所縁の境なり、境能(よ)く智を発(おこ)し、智亦(また)行を導く。故に境若し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず」(六巻抄 四二n)
と仰せです。信仰の対象である本尊によって初めて信を生じ、さらに行へと進んでいくのですから、もし正しい本尊によらなければ、私たちの信行は自ずから間違ったものになってしまいます。したがって、本尊の正邪を見極め、必ず正しい本尊によって信行に励むことが大切です。

 一大秘法の本門の本尊
 日寛上人は、
 「一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為(な)し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり(中略)三大秘法を合(がっ)すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」 (同 八二n)
と御指南されています。前回の『三大秘法』の項でも述べましたが、三大秘法のうち、「本門の戒壇」は、本門の本尊所住のところであり、また「本門の題目」は、本門の本尊を信じて唱える題目です。つまり三大秘法は、一大秘法の本門の本尊にすべて収まります。
 さらに言えば、寺院や各家庭に安置される本尊もすべて、本門戒壇の大御本尊の内証を、唯授一人血脈相承の深義をもって時の御法主上人猊下が御書写されるのですから、「本門の本尊」の中でも本門戒壇の大御本尊がその総体であり、根源なのです。
 故に、日々の勤行における二座の観念文では、いずれの御本尊に向かっても「本門戒壇の大御本尊」と称して御報恩謝徳申し上げるのであり、私たちの勤行・唱題の功徳は、すべて本門戒壇の大御本尊に帰し、収まるのです。
 したがって、総本山奉安堂に在(ましま)す本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)せず、また軽視するような信心では、功徳を成じないばかりか、それは謗法に同ずるものと知るべきです。

 人法一箇
 日寛上人は「本門の本尊」の意義を、「人本尊」と「法本尊」に開く筋道を示されています。
 まず「人本尊」とは、言うまでもなく末法の御本仏日蓮大聖人に在します。大聖人は『総勘文抄』に、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時・我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(御書 一四一九n)
と、一切の根元の仏である『寿量品』文底(もんてい)の本因妙の仏、釈尊は、名字即(みょうじそく)の凡夫のまま即座に悟りを開かれたと、前代未聞(ぜんだいみもん)の凡夫本仏義を明かされています。そして、御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」とお認めあそばされるように、その仏身の本義を末法の日蓮と顕されました。
 次に「法本尊」とは、御本仏が久遠元初(がんじょ)において悟られた宇宙法界の全体法たる事の一念三千の南無妙法蓮華経をいいます。そしてその実体は、弘安二年御図顕の本門戒壇の大御本尊です。この事の一念三千の御当体・大御本尊により、あらゆる有情・非情の生命や国土等、事々物々の一切が仏に成ることができるのです。
 この本尊の人と法は、全く離れることはありません。なぜならば、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(同 一七七三n)
と仰せのごとく、法本尊は人本尊たる大聖人が御出現になって初めて顕されるからです。
 また、その本尊には衆生を成仏せしめる法、仏の智慧、慈悲、功徳、その一切が具(そな)わるのです。『諸法実相抄』に、
 「法界のすがた、妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦・多宝の二仏と云ふも、妙法等の五字より用(ゆう)の利益を施し給ふ時、事相(じそう)に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき合ひ給ふ(中略)されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し侯へ」(同 六六四〜六六五n)
とあるように、三千年前にインドに出現して法華経を説いた釈尊、また法華経の会座(えざ)に出現した多宝如来、その他一切の諸仏は、その時々の衆生を導くために出現した方便化他の仏であり、御本仏の衆生救済の用(はたら)きの一分であると示されています。そして、大聖人が顕された「南無妙法蓮華経」の本尊、人法一箇の本門の本尊こそ、一切の仏法の根源、最高の本仏であると御指南されているのです。
 末法の衆生は皆、過去世に仏法との結縁がない本未有善(ほんみうぜん)の衆生です。私たちは、この「本門の本尊」を正しい本尊と定め、余事を交(まじ)えず、堅く受持し奉ることによってのみ成仏が叶うのです。
 「平成二十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向かって、ますます題目口唱、折伏弘教に精進し、もって御本仏大聖人の大慈大悲に御報恩感謝申し上げてまいりましょう。